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新エヴァンゲリオン

3/28/2021

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『新エヴァンゲリオン』を観た。
わたしは「シニア」、Tは「障害者」料金で、ふたり合わせて1,000円くらい安くなった。シニアと障害者にも娯楽が必要だから、これはありがたい。

前作を観てもいないし、エヴァンゲリオンが何なのかも理解していないわたし、果たしてついて行けるだろうかと思っていた。今日は5時半起きだったし、途中で寝ることも覚悟(?)しての映画鑑賞。

観たいと思ったきっかけは、先日、この映画の総監督である庵野秀明を取り上げたTV番組『プロフェッショナル』を観たこと。庵野の、命を削って作品を作る姿勢に衝撃を受け、自分が社会に奉仕できることは作品を作ることしかなかったいう彼の言葉に感動したから。作品に費やすエネルギーが半端じゃない。「命を削る」ということが大げさじゃないことも伝わってきた。

ストーリーが理解できたわけじゃはないけど、感動した。涙が出た。観に来てよかった。
新エヴァンゲリオンは、「希望と再生の物語」だった。そして作品に「庵野秀明の愛」を感じた。
人間に対する愛、親子愛、郷土愛、制作スタッフに対する愛。
今まで観たアニメ映画とは一線を画す、そんなスケール感と拡がり。ものを作る姿勢を糺されて、謙虚な気持ちにもなった。

戦闘シーンが多いせいか、Tは「大声を出したくなった」り、「吐きそうだった」と、あまり楽しめなかった様子。わたしは、最後の宇部新川駅の実写も含め、じーんとした。こころが震えるような感覚、久しぶり。創作のエネルギーに感化されたみたい。
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『美しい痕跡』

3/12/2021

 
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イタリアのカリグラファー、フランチェスカ・ビアッゼットンの『美しい痕跡』(みすず書房)を読み始めた。文章が心に沁みる。
 読みながら、わたしは大事なものをこぼしながら、砂上の楼閣を築こうとしていたのかもしれないという気がしてきた。流行に追いつくために、古いもの(持ち物も価値観も)を時代遅れという理由だけで見捨ててしまったあれこれが思い出され、これからはそれらを取り戻す作業をしていこうと気持ちを新たにした。
 手で文字を書くという行為は、嫌いではないけれど、ライターとしての仕事はワープロやPCの恩恵が大きかったっし、頭で考えたことを心から手へと伝えるプロセスで思考が整理され、かたちになるなんて考えてもいなかった。わたしには、効率と整った文章(外観)のほうが大事だった。

ときどき読み直したい、姿勢を糺される本。

※以下、本書より抜粋
「手で」というのは、「職人的な」の同義語であり、しばしば「貴重な」の同義語でもある。「ハンドメイド」とは、時間をかけて丁寧につくられたもののことであり、特別なものがもつ性質である。手で漉かれた紙、手で縫われた服、手で作られた本、手で描かれた絵・・・そして手で書かれた手紙、招待状、グリーティングカード。手でつくられていることこそが、物を唯一無二にする。」p.71

「カリグラフィーは、タイポグラフィと異なり、デザインでもレタリングでもない。カリグラフィは、ひとつの記号の総体で、そこでは記号は空間と関係を持ち、記号同士が関係しあい、判読性を前提とせずに記号を組み合わせることができる。タイプデザイナーはそうではなく、判読できる一揃いの記号を設計する。つまり、テキストを読むときに集中を妨げる要素をすべて取り除き、記号が均一になるようにデザインをする。カリグラファーの力量は、世界にたったひとつの文字を書くことにあり、自分の様式にしたがい、独創性を加えながら、与えられた状況に有効な形を作り出せるかどうかが問題となる。」p.95

「鉛筆は、技術的に完成されているだけでなく、哲学的にも完璧な道具である。こう思うのは、ひとつの道具に遅さと速さ、伝統と革新、ダイナミズムと静けさ、即興と反復というように、さまざまな考え方の対が集約され、一体化しているからである。鉛筆の先は、身体の可能性のもと、言葉に変換された思考の跡を残しながら紙の上を動く。思考は、頭から上腕、肘のカーブ、前腕をつたい、手に滑り落ちてきて、木の棒から頭を出した円錐の先端に集まる。頭の中でばらばらに絡み合っている思考が、重さを帯びて圧をかけ、腕にそって降りてくる。その思考を受け止めるために、鉛筆はそこにいる。そして思考に糸の形を与え、馬が駆け回るような筆記体で書かれたページの上に、関係とつながりを生みながら、思考をさらに押し広げる。」p.109 Francesca Rigotti 

「鉛筆  はやくておそく、若くて古いもの」

あれから10年…

3/11/2021

 
10年前の3月11日14時46分、わたしは長男と自転車で市内を走っていた。
 卒業式を控えた長男のスーツを買うためだった。何とかスーツは買えたけど、三陸は大変なことになっていた。巨大地震による大津波と原発事故。テレビの映像は想像を絶するものだった。映画のシーンを見ているような感覚になり、現実感が伴わなかった。
 卒業式は挙行されたが、直前に「平服での参加」と通達があり、新品のスーツはお蔵入りに。その日は、「福島原発二号機の原子炉格納容器が破損、大量の放射能が東京に飛散」というニュースが流れ、卒業の喜びより不安のほうが大きかった。
 
 それから3週間、わたしは家に引きこもり、テレビとパソコンの画面に張りついていた。テレビ報道や政府コメントに不信感を持ち始め、インターネットから報道できない事実や海外の報道をこまめにチェックした。日を追うごとに、怒りや悲しみや心配や祈りが膨らんで、こころが疲弊した。この繰り返しで、からだは凝り固まって、手足がむくんでしまった。

 わたしたちは未曾有の大震災と原発事故から何を学び、何を改善したのだろう。ずっしり重たい年月を振り返り、肩を落とした。事故後、ドイツは脱原発に舵を切ったが、当事国の日本は、原発の再稼働を推進している。汚染水は溜まる一方だし、廃炉は問題だらけ。家はあるけど住めない帰還困難区域は取り残されたままだ。
 それなのに「復興オリンピック」が始まろうとしている。
 放射能の恐怖にさらされたあのときから、ウイルスの不安がはびこる現在まで、日本は変わろうとしなかった。目に見えない脅威が降り注ぐなか、不利な情報は隠蔽され、利権が幅を利かせ、国は弱者を救おうとしない。
 社会だけの問題じゃない。あのときわたしは、ありきたりの日々に感謝し、節電を心がけて小さく暮らそうと誓った。その思いは「時間」という怪物にのまれ、消えそうになっていた。

 ひとは易きに流れてしまう。これからの10年は、落としものを探しながら来た道をたどるように、「ゆっくり」暮らそう。忘れてはいけないことをいつでも思い出せるように。

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    grulian's journal

    ぐるりのかかわりをシンプルに、ひっそり世界とつながりながら暮らしたい。
    模索する日々のできごと、胸のうちを気の向くままに。
    タイトルの「手考足迷」は河井寛次郎の「手考足思」に敬意を表して。

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